昭和44年12月06日 朝の御理解



 御理解 第34節
 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 確かにそうですよね。昨日、一昨日の朝の御理解にあるように、子孫繁盛を願わせて頂きながら、子孫が繁盛せんように行うておると。ね。一生懸命子孫繁盛だけは願いながら、子孫繁盛が出けんように自分でしてしまい。それではいくらそれこそさかたんぼうったって駄目ですわね。これはもうそのままその通り。ね。私はその神の言う通りにすればね、神の一言は千両の金にも代えられんと。
 有り難く頂いて帰れば、ね。「  」や船にも、車にも積めぬほどの神徳があると。神の一言は千両の金にも代えられぬ。ですからねその例えば一言の中に例えば商売をさせて頂くのにね、人が十銭で売る物は八銭で売れと、こう仰るでしょう。いわゆる神の一言ですね。ですからそれをね有り難く頂く〔  〕と言うて〔  〕は、目先は二銭損のようでも数が売れるから、それの方が得だという風に教えておられますがね。
 もうその安う売ったから、あの数が例えばこの、売れるから得じゃぐらいな事じゃないとですよ実際は。金光大神が言われた一言をです、ね、儲けるとか儲けないとかという事じゃなくて、金光大神が教えられたから、それをハッと気付かせて頂く。それをそのまま頂いて帰る。例えば、その事ではそんなら本当に損するかも知れんとですよね。〔         〕になるかも知れませんですよね。
 例えばなら二割も安く売るのですから。ね、十銭の物は八銭で売るというのと。けれどもね、あの、金光大神のお取次ぎの働きっていうものは、それから始るんです、そこから。それからのは、もう、計算、算盤の上には載らないほどのおかげになって来るんです。いわゆる、神の言う事はね、神の一言は千両の金にも代えられないという、とこです。商売繁盛をさせて下さいとね。
 と言うて、願うてから、自分は繁盛しないように、反対な事をしておる。これではおかげにならない事が分かりますよね。金光大神の神の一言と言うかね、その神の一言が大事なんですね。だからそこのところにですね、私はこう一心の立てられる信心をさせてもらわなきゃいけんと思う。ここ34節はもう言うならばそのままズバリと、そう教えて下さってあるんですから、色々に頂いて参っておりますけれども、神の一言は千両の金にも替えられぬというとこ。ね。
 船にも車にも積めぬほどしの神徳がある。その神徳がいわばこう動き出すと言うか、働き出したら、ね。その目先を店に損したから、数がよけい売れるから儲かったといったようなモンじゃなくてです。もうそこからですね、もう大きな働きが始って来るとですよ。たくさん売ったから儲かると言うような、あのモンじゃないです。薄口銭でたくさん売ったから、なるほどたくさんあの、数が売れたから却って今度は得じゃったといったようなモンじゃないです。
 なぜって、神の一言は千両の、ね、金にも替えられぬほどの神徳ですから。ですから、例えて言うと、ね、その数で売り上げて金を取るといったような、普通の考えとは違う訳です。ね、信心のない者でも、例えばここんところは、意味は分かると思うんですよ。なるほど、それはそうじゃんなあ、と。数が売れるから、その方が得じゃん。けれども、それば思いきって安う売る、その事が難しいんだと。
 ところが信心がなくてもですね、本当に繁盛しておる人は、そこを敢然としてやって退けて行きよるですね、美しゅう行きよるですそこは。けどもそれはあそこが安いから、あそこが安いからと言うてですよただ繁盛しておるだけですよ。けれども私が言うのはね、そういう事で繁盛するのじゃないて。たとえそこんとこで損したって構わんて。目先店に損のようだというその損したって構わんて。ね。神の一言は千両の金にも代えられないほどの御神徳の現れというものがです。
 別な所から別の方法で起きてくるという事なんですよ。ですか船にも、車にも積めぬほどのです、神徳ではない、おかげが頂けるわけです。ここに車にも船にも積めぬほどの、みなぎ溢れる、車にも積めぬほどの神徳がある。船にも車にも積めぬほどの、おかげがあると教えられると、まだ私共にはピンと来る、分かりがいいんですけれども。そこんところを、教祖は、ほどの神徳がある。
 そこんところが素晴らしいですね。そこんところに私共の工夫がいるという訳なんですよ。車にも船にも積めぬほどの、おかげがある、とは仰っていない。ほどの神徳が、ね、あると、こう仰っておられる。ですからこれはね数がたくさん売れるとか、売れない。売れてなるほど高く売った時よりも、かえっ、ほんなこて段々、辛抱しよったらこれの方が儲かるといったようなモンじゃない事が分かるでしょうが。ね。
 そこんところをですね、私共は把握して行かにゃいけんと思うですね。神徳がだからそこでは安売り高売りと言った様な事で、起きてくる利益と言った様な物はなくて、ね。もう、そのいわゆるおかげの世界がずうっと、大きく広く好転して来るわけですね。夕べ、壮年会。松岡さんが甘栗のお供えを沢山持ってきておられました。もうあちらの食堂の方と、それの方を両方やっておられるんです。
 もうこうしてシーズンになって参りましたから、私はもうどんどん繁盛しよるだろうとこう思うておった。ところがこの頃一向そのやっぱり、まあ場末ですから売れませんという意味のことを、ね。どうしてもやっぱり、繁華街でなからなければ高いモンですからね、甘栗ってやつは。だからなかなか売れませんとこう言う。で横から秋永先生が。松岡さん、それはね、日に日に生きるが信心なりが出来とらんけんよち。
 日に日に生きるが信心なりと。そこにはね、もう神様の大金がもう矢継ぎ早に頂けるんだと。ね。そしてにわかでどうしてこげん売れるじゃろうかというごたる、おかげが受けられるとこう言うのである。ね。まさしくその通りです。そんなはずはなかて、こげな田舎で売れ、いわば場末で売れるはずはなかと。こういう高級な物はいけんと、いうのは、どこまでも人間の考え。ね。
 そのタメには目先は損のようであってもです、ね。例えば中洲なら中洲辺りのお店で十円で売っとる物は、ね、そこで九銭で売る。しかも品物なかえって良かと。もういよいよ損なごたるけれども、もうそこは損得を考えずにです。ね、神の一言をです頂いて帰って、それを行じさせて頂いておる事の有り難さというものをです体験しなきゃいけん。そこにはですね、そこの栗があそこんとは安くて値段、品物が良かけんでと言うて売れる、それは売れましょうけどもそれだけの事っちゃなかて。
 もうそこに神徳の世界があるんですから。ね。秋永先生がやはり言われるのも、その事だっただろうとこう思うです。ね。日に日に生きるが信心が出けとらんけんと。ね。日に日に生きるが信心。ね、毎日毎日が自分というものを空しゅうして行く、自分が死んで行く。そのくらいな、私は覚悟があるからです、ね、もう儲けなんか算盤に置かずに、ね、十銭の物は八銭で売れるのであり。ね、
 却っていわば良質の物が売れるという事、良質いわゆる品物良い品物を安く売れると。ね、だから遠方からでも買い来ると言った様なおかげじゃないです、私が言いよるとこは今。はああそこんとは安うして品物がよかけん、あそこまで田舎ばってん行くがとあるばいと言うて、買い来るのじゃない。もう来るかも分かりませんよ。実際普通から言や買い来ます。ね、だから得になると言った様なモンじゃないです。
 金光大神がこう教えて下さったから、神の一言を本気で頂いて受けて、それを商売の上に表すから、ね、有り難くいわゆる頂いて帰るから、おかげは船にも車にも詰めぬほどの神徳がある。そこにいわば神徳の世界。それこそここから先はもう分からんとです。夢にも思わなかったようなとか、ね。もう本当に想像もしなかったような、おかげの展開がそこから頂けて来るんです。
 だから本当にあのそこんところがですね、やはりやっぱりその、秋永先生が言われるように、日に日に生きるが信心という事は、いわば日に日に死ぬるが信心という事も言えるのだ。死んだから明くる日はまた生まれる訳なんです。ね、だからやはり難しい事は難しいですわね、死んだ気でと言うのは。私はそういう商売がね出けれるような人が合楽に本当に出来なきゃいけんと思うです。
 なぜってここはもう商売人がほとんどですから。そういう例えばですね、神の一言を大事にされれる信者。昨日お礼に出てきた中にもう去年だったでしょうか。朝倉郡の方の教会に熱心に参っておる婦人です。それが娘を嫁にやらなければならん。ほれで自分の頂いておるところの教会では、右とも左とも腹が決まらんから、まあ合楽の先生にお尋ねしようというので参って来たのが初めてだった。
 お願いさせて頂いたら、御神意は悪くないと。やったら良かろう、しかも早くが良かろいうという事であった。ならそれで腹が決まってやりました。向こうの主人になる人に、ちょっと、やはりそのちょっとまあ言うなら故障がある訳ですね、故障ち言うと何ち言うんでしょうかね。とても良い人でまじめな人ですけども。でそれがどうも引っかかっておった訳ですけれども。神様から良かといわゆる頂いて、やった。
 所が二ヶ月目位だったでしょうか、もうそれこそもう本当にそれこそ長々とした、その便箋十枚位に、その自分の現在苦しい事を親に訴えて来た。もう死ぬる思いだと。まあいわばもう帰って来たいとこう言う訳なんです。でまたお母さんがお願いに見えました。私その時に御神米を下げさせて頂いてその御神米に。もうそれこそ相手がもう死ぬるごと嫌なら、嫌と言う様なものがね、こちらの心の中にもある。ね。
 だからねその事をです、ね、心の内を改める事が第一なりとされるには、そこん所をです、ね。もう帰って来るごたる、死んだごたる気がすると。けどもですねただ行って、言うならば良か事ばっかりのようで夢が破れてしまって、まあどうして来たじゃろうかという事になっておるけども。自分が改まってそれに取り組もうとしてない。ね。心の内を改める事が第一。
 自分が嫌でたまらんなら、ね、自分の心の中にもまた相手から嫌でたまらんといったようなね、心を改めて一心に願えというような事を、私ちょっと記憶をその通りの事を忘れましたけれど。まあ素晴らしい言葉でした。ね、それからもうしばらく参っておりませんでしたが、この頃、青年会の大会をここで開きました日に、親とその夫婦を主人親と一緒に導いて参ってここにみえました。お礼参拝して来ました。ね。
 初めて、金光様の信心は初めて。それで、そのおられ、そのようするに熱心に信心しておるんですから、ここで青年会の、まあ共励会のような大会がありよるから、お話がありよるから聞いていいでしょうかと言うから、はあ聞いていらっしゃいと言うてから、私は裏の方へ、共励殿であってましたからやってました。若い青年の方達が色々体験発表なんかを聞いたんでしょう。
 それから非常にその主人が感動してですね、その時々そのその人の近所にある教会にお参りするようになった。昨日お礼に出て参りましてから、まあそれこそまたそれ十枚ぐらいな便箋に、手紙に書いてあのお礼参拝をしてくれと言うて来てから。もう死ぬほど嫌であったというのがですね、もう本当に嘘のように楽しゅうて楽しゅうて応えんごつなった。おかげで子供にも恵まれた。
 どうして本当に同じ相手二人、変わった訳じゃないけれども、どうしてこんなに、自分でも分からんくらいに、自分の心の変わり方に驚いてしもうておると言うてその、喜びの事いっぱいをお母さんに、宛に手紙が来てるんです。これは善導寺の方ですが。2~3年前奥さんを亡くした。時々参ってくるんです。ところが長男っていうのがこうその、悪人じゃないけれども、朝は朝寝する、朝寝出たらお酒を飲んで帰って来る。
 もういくら言うても言うても、言う事を聞かん。というのでお願いに見えました。それで私また、心の内を改める事が第一なりと。金光様の信心はねここなんだから。自分の心の内を改める事が第一ですばい。息子じゃないもうそれこそ本当にまあ大変な思い切った改まりを、ここでお届けをして帰られた。これもやっぱ昨日、お礼に出て見えたんです。もう先生、嘘のごたっち。第一にその早起きをするごとなった。
 出たっちゃ絶対酒飲まんでもう一ヶ月になりますが、それが狂わない。もう本当に嘘の様なおかげを頂いておりますと言うて、昨日お礼に出て来とります。善導寺の方ですよね。でそこで私が思いますのにですね、心の内を改める事が第一なりと。神に一心とは迷いのない事ぞと。先ほどから私が申して参りました。神の一言は千両の金にも代えがたい。有り難く頂いて帰ればおかげは、船にも車にも積めぬ程の神徳があると。
 金光大神が教えて下さった、この例えばと、ね、ここで私が申しておりますように。神の言う事は途中で落としてしまいと仰るけど、それを落とさずにです。なら、ここでは商売人の方が例えば多いから、まあ商売の例を取りまして、ね、十銭の物は八銭で売れよと。目先は損のようであっても、数が売れるから、その方が得じゃと仰るけれど。ね、ただ、数をよけい売ったから得をするといったようなモンじゃないて、金光大神の仰る事を聞かせて頂いて、ね、おかげを受けるという事は。
 それから先の神徳がある。ここにはですもうそれこそ手の平を返すような夢にも思わなかった様な、それこそ死ぬごと帰ろうごたった御主人がですね。家の信心もするようになり、ね、今までどうしてこの人と一緒にならにゃんなら、死んだ方がマシと言った様な事を思うたじゃろうかというほどしに有り難うなって来とる。心の内を改める事が第一だ。あんたが、嫌で嫌でたまらんなら。向こうからも嫌で嫌でたまらんごたる。
 いわば物があるのだと。そん時に私が御心眼に頂いたのがですね、あの油虫を頂いたんですよ。あれはあの子供の時は言いよりましたよ。油虫を殺すと高良山に三べん参ったがたあるち。ね。だからその事をですなら主人の方にもそうじゃろうばってん、自分の心にも油虫のごたっとが住んどりゃせんかと私が。それを取るとねそれこそ高良山に三べん参ったがたあるよと。自分の心の中の油虫を取らなきゃ。ね。
 そうして一心と定めいと。そしてもうここに来た以上は、ここから帰えっ例え死んだっちゃ帰らんちゅうごたる、一心を立っ迷いのない一心を立てなければならんという意味の御理解を御神米に、お書き下げを頂いて母親がそれを持って、その事が腹が決まった訳ですよね。ところがいわゆる、まあ半年足らずの間に、そのように有り難い事になって来てる。善導寺のその場合もそうである。ね。
 なら私が改まりますから、これじゃ息子は助からん。それけん私が改まりますから、この事だけは、もう実際は改められんごと難しい事じゃばってん、これ息子かわいいまたそこの家が立たなきゃならん為には、改まりますからと言うたら、先生うそのように朝、早起きをするようになりました、夜帰って来るのも早う帰って来るようになり、お酒を飲まんで帰って来るようになり。
 ああそれから朝起きて、最近はご飯を炊いてくれますち、お母さんがおらんから。もう本当に、しらごつじゃなかじゃろうかち言うぐらいにおかげ頂いとる。朝起きて朝どげん起けたっちゃ起きらじゃったつがね。起きんだけじゃない、ご飯も炊くようになった、朝ご飯を。本当に心の内を改める事が第一なりと、ね。金光大神が言うて下さる、教えてくださる神の一言は千両の金にも替えがたいほどしの、おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳があるのですから。ね。
 そこを頂かせて頂く為にです。それが行の上に現せれる為にです、神に一心〔とは思えんが、ひとつ?〕一心が立てられる事の為にです。ね。改まって願わなければならないという事です。ね。ここんところがですね、そのはあ本当に改まるという事をね。それこそ、自分が死んだ気になって改まるという事。その改まる事がです、今まで出来なかった事がです、スーッと出けて来るんです。
 商売しよってから、今まで十銭の物ば八銭で売れりゃ良かろうばってん、そげな訳にはどうしても出来じゃった事がですね、スーッと出来る様になる。これは改まらな出来る事じゃなか。だから、私は、今日はですね、この34節の只今色々お話聞いて頂きました最後のところをですね、いつもここんところが強調はしてなかったんですよね。積めぬ、船にも車にも積めぬほどの神徳があると。
 ここんところはもうそのまま、ずばりずっとこう教えておられますけどもね、最後のね、心の内を改める事が第一なり。神に一心とは迷いのない事ぞというところがです、何かここにこの先の御理解のところに、ちぐはぐな感じが私はしておりましたけれども、今日頂いて見てです、ここんところを頂かなければ、神の一言を落としてしまう必ず途中で。だからいわゆる改まってその事を願う。
 心の内を改める事が第一と仰る、その第一の改まりをそこに神様に願わせて頂いて、その気にならせて頂く所からです、今までは出来なかった神の一言がスムーズに頂けるようになる。言うならばそのその位な一生懸命、死んだ気で所謂信心がさらな物が頂けれる事の為に、日に日に生きるが信心なり。いわゆる日に日に死んで行くという事が明くる日はまた、新たに生まれて来るものをになって来る様にですね。
 そういう、日に日に生きるが信心というような信心が出来ません、改まらなければ。心の内を改まる事が第一。だからこの御理解をですね、頂きゃもう絶対に、この神の言うことをね、は、もう道で落としてしもうて神の言う事を聞かんと。神の一言を有り難く頂いて帰りゃ、船にも車にも積めぬほどの神徳があると。ということはいわゆる分かっておっても出来ないのはその最後に。
 心の内を改める事が第一なりと仰るのに、心の内を改める事が第一でない。これはもう第二も第三のごと思うとるから、神の一言が良う聞けんのである。神の一言を聞きゃそこから展開して来るおかげというのは、いわゆる積めぬほどの神徳があるという、その神徳の現れ、ね、がそこに始って来るから、かげになって来るのです。ね。心の内を改める事が第一と仰る。この第一の物を置いてならここの良かとこだけを本当に素晴らしい御理解じゃったと言うて、聞いただけではです。
 けっきょく神の言う事は、もう家に帰るまでには落としてしもうとる。これではおかげが伴わない事が分かるでしょう。ね。自分の息子のいわばおかげを頂かれる為に、親が改められないごたるところを、本気でお取次ぎを頂いて改まったら、ね、嘘のような一月が続いておると言う。ね。朝寝しよったつが早起きするようになり、お酒飲んで帰りよったのが飲まんで帰るようになり母親がおらんから、ね。
 もちろんお父さんがご飯炊きよったつが、この頃では自分の息子が自分自身で起きて、ご飯を炊くようになったと、こう言う。本当に嘘のようだと、お届けしておられます。もう死ぬごと帰ろうごたった、嫌じゃった主人がです、ね。心の内を改める事が第一なり。向こうも、もう本当に油虫を見るごと好かじゃった主人がです、自分の心の中に油虫のおる事が分からせてもろうて。その油虫を取り除こうという気になって。
 一心になったらどうしてこういう良か人を、こういう風に今まで見れなかったじゃろうかという事にまでなって来たっち。十枚ばかりの便箋に、もう本当に死んだ方がマシちゅうごたる手紙が、ね、何ヶ月目にはその十枚ばかりの便箋に、とにかくお礼を申し上げる事ばっかりを、母親に寄越しておる様な変わり方になって来とるでしょうが。神の一言を改まって聞いたからです。ね。私共の心の中に、心の内を改める事が第一と仰る、ね。人からいや人からじゃない、自分自身にでもです、
 自分の心の中に、へきへきとするような物があるでしょうが。それがすなわち油虫ですよ。ね、だからそれをです、自分が取り除かせて頂くから、ね、それを殺してしまうから、高良山に三べん参ったがとのおかげがある訳ですよ。ね、高良山てのは、高神様っちゅう事ですね、天地の親神様の心に通じる訳。ね。そうして願わせて頂くところにです神の一言がね、素直にスムーズに、楽に聞けれるようになる。そこに御神徳の然らしめるところの、おかげの展開ちゅうのがある訳なんですね。
   どうぞ。